70年前の8月15日終戦
大正時代産まれの祖父母に育てられた私は同世代の友達より戦争を近く感じている
祖父母の家では、8月15日は特別な日で食事は朝、野菜の入ったスイトン一杯だった
その変わりに小さな仏壇には果物やキャラメル、ふがし、水羊羹などがてんこ盛りで乗せられ蝋燭と線香が絶やさず焚かれていた。
この日だけは、それらの甘い誘惑に手を出すことを禁じられ終戦記念日の意味のわからない小さな子供の私は
『なんで?』と毎年の様に聞いていた
『今日は、ご馳走を食べられないでお国の為に亡くなっていった人達に差し上げる日なんだよ』
祖父はそう答えていた
小学校も中学年になれば少しづつ戦争のことも理解しはじめ、この日ばかりは自ら蝋燭の火を絶やさず線香をあげていた。
叔父と母は戦中の産まれで、祖母は丈夫で産後の乳の出が良く近所の乳の出ない母親の代わりに赤子に乳を飲ませていたらしい。
田舎の貧乏暮らしの知恵で食べられる野草の知識があり、それらを口にしていたことが功になったようだ。
噂が広まり遠くから一日、一回でも飲ませてくれと少ない配給品を持って赤子を背負ってくる親子を帰せず自分の子供に飲ませる分まで差し出し出ない乳を私の母に吸われ痛かったと‥‥
当時は壊れたテープレコーダーの様に毎年、同じ話しを聞かされうんざりしていたが今は不器用に真っ直ぐに生きた祖母が懐かしい。
戦争で唯一の肉親である兄を亡くした祖母にとって終戦記念日は特別な日だったのだろう‥‥
戦後70年、そろそろ生き証人達もあちらの世界に旅立たれ
その世代が育てた団塊世代は日本高度成長期、家庭を顧みず働きづくめで身を削ることが美徳とされてきた
団塊世代が育てたバブルっ子達が今の経済の中心になっている
出先で涼を取る為に入った喫茶店は大変な繁盛で満席の客席には色とりどりのパフェやケーキが並び歓談の声が店内に響く
物質的には完全に戦争の傷はなくなった日本は年間3万人以上の自殺者を出し、3万人以上の子供達が児童養護施設などで保護され親元を離れて暮らしている。
食料自給率は30%未満で年間5500万㌧の食料を輸入して1800万㌧の食料を廃棄している
世界の食料援助量の470万㌧を遥かに上回り発展途上国の5000人分の年間食料に価する。
この世界は全て投影
無意識の表れだとしたら、ひとり一人の無意識をクリアにしていくしかない
こんなことを考えながら食べたクリームあんみつはいつもより甘く感じた‥‥