肉体は消えても量子の場は観察できます。

2月17日は祖母の命日でした。

今まで思い出したこともなかったのに不思議と今年は思い出しました。

私の中の祖母への気持ちが楽になってきたからでしょうか…
生前の笑った顔を見たことがないので、思い出す時はしかめっ面の厳しい顔の祖母ががニッコリ笑って夢に現れました。

穏和な祖父と真逆で気性の洗い性格の祖母

大正12年2月10日に山形県で産まれ家は貧しく両親を子供の頃に亡くし唯一の実兄が戦争に召集されてからは奉公に出され奉公先で厳しくされて育ったそうです。

その奉公先が私の実父の実家という…

なんの因果と言いましょうか

祖母は三人の子供を産み
私の母は末っ子の次女になります。
長女は生後一才足らずで肺炎になり亡くしました。
戦争当時母乳の出ないお母さんが多く豊かな母乳が出る祖母の元に近所のお母さんが子供を連れて並んだそうです。
その余りの数の多さに祖母は自分の子供にあげる分までも人の子に飲ませていたそうです。

身体が弱く病気がちの祖父の変わりに昼は天ぷら屋、夜は飲み屋と昼夜働き二人の子供を育て上げた祖母

厳しい時代と環境を生き抜いてきた祖母

祖母の口癖は『不敏だね~』『地獄だよ~』『橋の下に捨てられるよ~』

酒を飲むと過去の寂しさを思い出すのか暴れる祖母

だいぶ、八つ当たりも受けました。

祖父母の家は貧しく風呂なしの古い木造
冬は隙間風が入り家の中でも寒くて手袋をしていたのを覚えています。

倹約家の祖母は八百屋のゴミ捨て場から傷んだ野菜を学校のウサギの餌にするともらって来させられたり、春になるとタニシ採りやセリ、ハコベ摘みで食料調達(笑)
今だに道端にある野草を見て『これ、食べれるよー』なんて言ってる私

学校のイベント事で祖母が作る地味な弁当が嫌で投げ付けたこともありました。
そんな時は三倍になって返ってきました

子供の頃は祖母が恐くて心からは好きになれませんでした。

そんな祖母の習慣は

半分こ

お煎餅でも、大好きな饅頭やお昼のパンも

なんでも

半分こ

自分が食べてるオヤツを半分にして渡すのです。

もう、そこまで貧しい時代じゃないのに

全部、一人で食べないんです。

晩年は病院で泊まりの家政婦をして働けるギリギリまで働いていました。
暇な時間をみつけては得意なお手玉を作りリハビリになるからとプレゼントしていました。

予定が延びて帰れない祖母に着替えを届けに行くと

『あの人は可哀想なんだ、、、』

と私に言っていました。

豪華な個室に入院して専属の家政婦まで雇える人を可哀想と

祖母の幸せの基準は家族と一緒に過ごすことだったのですね。

祖母の深い哀しみに気付けたのも量子場師になってからの、この数年です。
肉体は無くなっても量子の場は癒されるのですね。

大正産まれの戦中戦後を生き抜いた祖父母と過ごしたお陰で年齢層の高い方とも話しが弾みます(笑)

以前に紹介で何度か施術させて頂いた70代後半の女性がこんなことを言っていました。

‘’量子場調整はなんだかわからないけど受ける度に心が軽くなる‘’

‘’これで安心してあの世に行けるわね、誰かに怨みを持ったままだと極楽の門は開けてくれないから(笑)‘’

そうですね、
これで一歩、神様に近付きましたね(笑)
老いを楽しんで下さいね(*^^*)